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明石家さんま

カテゴリー:お笑い芸人:男

明石家 さんま
本名:杉本 高文(すぎもと たかふみ)
1955年(昭和30年)7月1日
日本のお笑いタレント、司会者、俳優、歌手、ラジオパーソナリティー。
奈良県奈良市出身。奈良県立奈良商業高等学校卒業。
吉本興業所属。
1980年代後半以降、タモリ、ビートたけしと共に、日本のお笑い芸人BIG3の1人として称される。

人物

芸風
デビュー当初は菅原文太のものまねや、当時人気だったプロ野球・阪神タイガース投手の小林繁の形態模写や漫談が主であった。
ピンで演じることもあったが、兄弟子の明石家小禄(後に五所の家小禄と改名)とのコンビで、コントスタイルで演じることもあった。
ただし、最初は巨人の小林繁として形態模写をしており、江川卓とのトレードで阪神に移籍した際に、この芸を封印したが、トレード直後の阪神タイガースで小林繁の活躍に伴い、関西地区で小林繁の形態模写を熱望されるようになり、本人は渋々再開した所、小林繁と相乗効果で人気を集めるようになった。
現在では司会業が中心で、中には二十年以上続く番組がある。
聞き手に回りながらも、相手の何気ない一言を即席の持ちネタにし、話の節目やオチで効果的に連呼し使用する特徴がある。トークのテンポに関してはこだわりを持っており、テンポを崩されるとすかさずツッコミやボケを入れる。例えば、番組中で質問した際に相手が考え込んでしまうと、大抵は「早く言え」等とツッコんだり自らボケを挟んで笑いを取りにかかる。本人としては、たとえ嘘や適当な答えでも話が広がりさえすればそれでいいので、とにかくパッと早く答えて欲しいと思っている。
また、定番ギャグを持つ若手芸人に対しては「フリからギャグ」という流れを重要視して接する。そのため、自らのフリに反応が無いと途端に不機嫌になる。
かつて『笑っていいとも!』で共演した松本人志(ダウンタウン)にもその場で出たギャグをやらせようと振ったが気付かれなかったため、かなり拍子抜けした様子であった。
師匠の松之助と同様、芸と仕事には厳しく、気の合わない相手に対しては放送中でも執拗に攻撃する(いじり倒す)場面も見られる。
関西弁を使用するきっかけは若手の頃に友人である佐藤浩市とバーで飲んでいるところに佐藤の友人が来店。その時佐藤はさんまに合わせて関西弁を使用していたがその友人が「なに芋臭い方言でしゃべってんの?」と言い放ち、それを目の前で言われたさんまは「絶対に関西弁で勝負してやる!」と心に誓ったエピソードがある。

芸名(愛称)
松之助に弟子入りした当初の芸名は「笑福亭さんま」であった。
「さんま」という芸名は、さんまの実家が水産加工業を営んでいたことから命名。
その後、「明石家さんま」に改名。「明石家」は師匠・笑福亭松之助の本名「明石徳三」から貰い受けたもので、当時は松之助門下の多くが「明石家」を名乗っていた。
(「明石屋さんま」は誤字。)亭号を「明石家」に改めた理由としては、落語を演じない者に一門の「笑福亭」を与えることは許されないとした、一門の方針によるというのが通説になっている。しかし師である松之助自身一時落語を離れ、喜劇役者に専念していた時期があったことや、吉本に所属していた月亭可朝、笑福亭仁鶴、桂三枝らのタレントとしての活躍、兄弟子の明石家つる松(後の橘家円三)は古典落語しか演じなかったことを考えると、落語をしないことが「明石家」を名乗る直接の理由ではないと考えられる。松之助の兄弟子にあたる六代目笑福亭松鶴は、直弟子の鶴瓶にはほとんど落語の稽古をつけていないし、当時鶴瓶も落語をほとんど演じなかった。対して松之助はさんまには落語を少ないながらも教えている。 さんまの落語家よりタレント志向であったことも理由であろうが、「明石家」という語呂の良さや、本家筋にあたる直系六代目一門との差別化が大きな要因と考えられる。 (さんまの兄弟子にあたる小禄(廃業)は松之助から「こいつさんまやからお前ひらめにせぇ」と言われたが、土下座して断った) さんまもデビュー間もない頃は岩田寄席など地域寄席で古典落語を演じ、毎日放送の大喜利番組では着物を着て落語家として出演していた。 また、一説では、笑福亭さんま時代、さんまは一人の女性にのめりこみ、仕事をすてて駆け落ちしたことがあり、松之助は仕方なく破門した。結局その女性とはうまく行かず、破局。さんまは落語界に戻ったが、松之助は、一度笑福亭の名をけがしたことと、もう笑福亭で落語をするより、別の、テレビなどの方面にいったほうが、さんまには向いてると判断し、明石家、にさせたという説がある。この時のことは、桂ざこばがよく知っていて、「さんまのまんま」出演時に語っていた。 松之助は、家業から名前を付けることが多く、さんまの兄弟弟子には、自転車屋から明石家サドル、美容室から明石家パーマなどが命名されている。命名時のエピソードとして、同期の島田紳助が師匠の島田洋之介・今喜多代(現・今日喜多代)に芸名を決められた時、さんまは「その名前やったら絶対売れへん」とからかい、紳助は落ち込んだが、そのすぐあとに「さんま」という芸名をもらった話を聞いて「こいつ(芸能人として)終わったな」と逆に大笑いされたというものがある。
愛称は「さんちゃん」(所ジョージなどが使用し、かつては桂三枝の愛称でもあった)、「チャッピー」(ヤングおー!おー!内で桂三枝と共に「サニー&チャッピー」で出演)、「さんちゃま」また、中堅 - 若手芸人からは「さんまさん」「お笑い怪獣」(ナインティナインなど)「さんま兄さん」(今田耕司など)と呼ばれている。また、所ジョージは「明石家さん」と呼ぶこともある。萩本欽一の「大将」、ビートたけしの「殿」に相当するもので「若」という呼称もある(主にジミー大西などが使用)。近年はBIG3であることや長年に渡ってお笑い界で活躍したことから、若手のお笑い芸人から「師匠」と呼ばれることが増えており、タモリや桑田佳祐や松尾伴内は(明石家さんま)師匠と呼ぶ事もある。ただし、正式な弟子はとらず、さんまが26歳の頃に吹田市千里丘のMBSで生放送していた「ヤングタウン」の放送中に当時18歳の少年が、弟子入り志願で入口付近に来ていると警備員から報告が入り、「今、弟子入り志願の少年が来ているらしい」と生放送で話をしていた。それが弟子入り志願者第1号である。その後数回その少年と会う事になるが、弟子になりたい人間と弟子を取らない人間との話のすれ違いもあり、連絡も途絶えたらしい。その後も数十名の弟子入り志願者が来たらしいが、全て断っている。村上ショージはさんまが暴走した時などに「先生(センセ!)」と呼び、なだめる場合がある。島田紳助は、突っ込みなどでは「杉本」と敢えて本名を呼ぶことがある。
同じくBIG3であるタモリ、ビートたけしからは「さんま」「さんちゃん」「さんまちゃん」「明石家さんま師匠」「出っ歯」「お前」「あんた」と呼ばれる。たけしは「明石家」と呼ぶこともある。またタモリは第三者とさんまのことについて話す際は、「あの男」と表現する。さんまは年上のタモリとたけしを基本的にはさん付けで呼ぶが、突っ込む時には、たけしを「ビート」、「たけ」、「たけし」、「おっさん」と呼び捨て、タモリにも「タモリ」、「タモさん」、「森田」と呼び捨てにしたり「あんた」「お前」と呼ぶ場合もある。

身体的特徴
いわゆる「出っ歯」の代表的人物として有名。
前歯を差し歯にするときに「少し引っ込めますか?」と言われたが、断ったという。
また、差し歯のメーカが(冬のソナタの)ヨン様と同じだと言い張って物マネをしていた。一時期その顔つきを自ら新幹線『のぞみ』(新幹線300系電車)と表現したことがある。
かん高い笑い声とドナルドダックの様な「クワーッ(もしくは「クエーッ」)」という引き笑いが特徴。音声学的見地から言えば、アホウドリの鳴き声と同じであると言われる(嘉門達夫は「引き笑い鳥」と名づけている)。普段の話し声は実年齢を遥かに上回る声と分析をされたがこの笑い声だけは30代の声と解析された。とんねるずの木梨憲武はゴルフ場で雉の鳴き声を聞いて「あー、さんまさんも(このゴルフ場に)来てるんだ」と言い、雉とさんまの声を真剣に聞き間違えた。
睡眠時間が極度に少ない。本人曰く、「今までの人生で10時間以上寝たことは一度もない」とのこと。雨上がり決死隊・宮迫博之によると「仕事で3日間一緒になった際、多分あの人はあの3日間一睡もしていない。宮迫が機内で寝ようとしたら、起こされた。また、初日の収録が終わり、次の日の入り時間が早朝だったにも関わらず深夜まで一緒に飲み、次の日フラフラになって収録現場に行ったら、何も無かったかのように元気なさんまさんがいた。こんなことが3日間続きながらも収録が終わって、ダウン寸前で家に帰ってテレビをつけたら、さんまさんが生放送番組に出演していた」との事。また、寝顔を人に見られるのを極端に嫌い、新幹線で寝ていた際、すぐ後ろに座っていた宮迫博之が寝ていると思った次の瞬間、パッと起き上がって振り返り、宮迫に「(俺が寝てたこと)絶対言うなや」と言った。自身の番組『明石家さんちゃんねる』(TBS系列)では、さんまがあまりにも寝顔を見せないため、「さんまの寝顔写真大募集」という企画が行われた。しかし、送られてきたのはたったの1通で、しかも13年前に1度だけ寝顔を撮られた写真のみであった。またタモリ曰く、さんまは寝付くのは異常に早く、ずっとしゃべり続けた後「じゃあ寝まっか」と言った次の瞬間には寝ていたらしい。すぐ寝られるのと同様、起きた瞬間からもう陽気であるという。本人曰く、「寝ないのではなく寝られない」という一種の病気であることを医者から診断されており、睡眠導入剤を使って無理やり寝ることもある。寝ないというイメージがついてしまったために新幹線で寝ているとがっかりされるとも語ることもある。娘のIMALUでさえも、「父の寝顔は見たことが無い。」と語る。
2008年7月放送の「FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!」で総合司会を務めた際には、26日19時から翌27日22時まで出演し続け、番組が終わった後には放送スタジオでの打ち上げで深夜1時までビートたけしと語り明かし、帰宅後も朝6時まで起きていたという。その時さんまは「次は35時間テレビができる」と思ったらしい。この番組で太平サブローに「こんな元気な53(歳)、(他の)アジア(の国)にはおらん」と言われた。

私生活
よく番組内で共演者が「さんまさんは普段からあの調子でベラベラしゃべっている」と言うことがあり、宮迫博之からは『痛快!明石家電視台』収録のための移動(新幹線)では、隣同士に座る共演者の松尾伴内と行き帰りの4時間以上ずっとしゃべり続けており、「他の乗客は疲れて寝たいサラリーマンの人達ばかりなのに、ずっと二人がしゃべり続けているから寝られなくて困っている」と言われている。常時しゃべっているため喉への負担が大きく、寝起き時はかすれた声しか出ない。
滅多に体調を崩さない。そのため、37度の微熱でも当人にはとても辛く感じられるという。「風邪を引いたときはみかんを食べて太陽に向かって走れば治る」を持論としているが、東野幸治が実行し逆に悪化させてしまった際には、気持ちの問題で本当やったらダメとコメントしている。
「日本のいいところは四季を味わえることや!」として、家では冷暖房を一切使わずに、夏は窓を開け冬はこたつを使用する生活をしている。
若手時代からジミー大西に運転手をさせていたため、運転免許は娘が産まれた後に取得した。当時の妻・大竹しのぶは女性誌の取材で「子供を生んでからしばらくの間、腰痛で運転したくなかった。代わりに運転するためにさんまさんが免許を取った」と言っているが、自身は番組で「運転を名目に、娘のおむつ交換から逃げられるから免許を取った」と度々言っている。
2006年に千代田区平河町にビルを購入している。
愛車はメルセデス・ベンツG55AMG long。(新車価格1703万円)しかし2008年の27時間テレビにてビートたけしに外装をペンキだらけにされてしまった。過去にはレンジローバーにも乗っていたがこれもビートたけしに傷だらけにされてしまった。
ポリシーとして、愛車のガラスにスモークフィルムは一切貼らず、透明のままである。

家族
実母とは死別している。また、1983年4月に弟が火事で焼死し、実父は2006年2月4日に死去。
実父は、さんまが噺家(芸人・芸能人)になるのを反対していたようだが、さんまが売れた後、「カラオケスナック・さんま」を開店した。また、電話で本名の高文でなくさんまと呼ぶようになり、さんま本人はショックを受けたと述べた。
1988年9月、女優の大竹しのぶと結婚、長女 いまるが誕生するが、1992年9月に離婚。
子供には「お父さん」と呼ばせず「ボス」と呼ばせている。
本人はその理由を、常々自分という人間は父親という器ではなく、昔から「ボス」と呼ばせるのが夢だったと語っている。但し、これには、さんまを「お父さん」と呼ぶことに抵抗があるかもしれない長男(大竹しのぶの連れ子)への気遣いもあると大竹が著書で語っている。
さんま曰く、長女・いまるの名前も座右の銘「生きているだけで丸もうけ(いきているだけでまるもうけ)」と「1=いまる・2=にちか・3=さんま・4=しのぶと並ぶようにした」から名付けたとしている。それに対して、大竹は「今を生きる(いまをいきる)から名付けた」と言っている。TV等では名前が公表されているにもかかわらずさんまの番組などでは顔出ししたことが一切無かったが、2006年、大竹が出版した自叙伝の中で二人の顔が初めて公開された。『27時間テレビ』・今夜は眠れないのコーナーで、大竹や長男とともに電話出演が一度ある。その長女・いまるは芸名「IMALU」として2009年に芸能界デビュー。
2006年7月23日放送の『おしゃれイズム夏の60分SP』によると、「老後に一人でいるのは嫌」という理由から再婚する気は満々らしい。また、番組中に長女が3歳の時に製作した父の日の初めてのプレゼントを紹介している。

来歴・エピソード

若年時代
さんまの出身小学校である奈良市立鼓阪小学校には、小学生当時捕まえたムササビが展示されている。また当時「ムササビを捕まえた少年」として話題になった。2009年7月24日放送の『笑っていいとも!』の『テレフォンショッキング』では、この話題だけで20分程度を費やした。
中学校時代、家庭教師から英単語を覚えるように言われて「そんなもの覚えたって何の役にも立たへんわ。僕はアメリカ人になるつもりはない」と反論した。
奈良県中学生相撲大会で2位になったことがある。さんま曰く、「ほとんど経験ゼロで出場し、突進してくる対戦相手が怖くて土俵上で逃げ回っていたら、相手が勝手に自滅し、気づいた時には決勝戦だった。」
高校時代に運動会の徒競走でスタートと共に後ろへ逆走した。その結果、運動会は一時中断し、さんま含む8人の悪ふざけグループは正座させられ、教師に竹の旗で頭を叩かれる。ある一人に対しての音が「ポコン」だった為、さんまは笑いをこらえ下を向いていた。その様子を教師が見て、さんまが泣いてるものと勘違いしたが、さんまは吹き出してしまった。それを見た教師はさんまを追いかけ腕を掴んで怒られた。
さんまは中学、高校の頃はアメリカの女子水泳選手:シャーリー・ババショフのファンであったことを、1997年頃の自分の番組『さんま・玉緒のお年玉あんたの夢をかなえたろかスペシャル』(TBS)の中で語っていた。その縁でババショフがさんまの番組にVTRで出演してくれたことがある。
小学生時代は肥満であった。
少年期の頃はプロレスラー志望で体を大きくしたいために「毎日肉が食べたい」と懇願する。

内弟子時代
1974年2月、高校3年の時に2代目笑福亭松之助に弟子入り。下積み時代は兵庫県西宮市甲子園に在住。当初の芸名は「笑福亭さんま」。入門の動機は花月劇場で見た松之助の新作落語が面白かったから。初めて顔を合わせた際、松之助に入門の理由を問われたさんまは「センスがある」と、さんまとしては素直な気持ちを伝えただけだったが、それに対し松之助は「おおきに」と礼を言った。入門生活は、丸刈りにされること以外はあまり厳しくなく、放任主義だったという。この時に春風亭小朝と出会っている。

関西ローカル時代
1975年、『11PM』(日本テレビ系)でテレビデビューを果たす。「落語家の成人式」というテーマだったが、さんまは師匠・松之助の忠告により営業用の赤いブレザーを着用。また番組内で、女性漫才コンビ「海原千里・万里」の海原千里(現在の上沼恵美子)から、「SEXの四十八手以外に知っている技がある人は?」という質問に対し、「逆さ十文字落としでぇーす」と答えて技を説明した。スタジオは爆笑だったが司会の藤本義一から「さんまかいわしか知らんけどな、テレビで言うてええことと悪いことがあんねや。それぐらい覚えて出て来い!」とCM中に叱責される。しかし、横山やすしには「気に入った!飲みに行こ!」と気に入られ、その後やすしの家に招待された。また、この放送を見ていた松之助は、この件を大いに絶賛している。
1976年に毎日放送(MBSテレビ)の人気番組『ヤングおー!おー!』に出演。「チャッピー」と名付けられ、司会の桂三枝の愛と厳しさに育まれながら、次第に頭角をあらわす。番組内ユニット「ザ・パンダ」(先代林家小染・月亭八方・桂きん枝・桂文珍)を改編してさんまをメインにした「さんまアンド大阪スペシャル」(SOS)を立ち上げ、諸先輩を差し置いて1コーナーを任されるまでになる(当時のキャッチフレーズ「おれは大阪のさんまや!」)。その後、プロ野球阪神タイガースの小林繁投手の投球フォームを形態模写して評判になり、関西を中心にアイドル的な人気を勝ち取る。そして、1980年より、10年余りにわたる同番組司会を卒業することとなった三枝からの指名によって後継司会者の座に付き、番組終了時まで2年9ヶ月にわたり晩期の同番組の大黒柱として活躍した。
兄弟子に当たる五所の家小禄と漫才コンビを組んでいたことがある(その当時のVTRは現在もよみうりテレビ(お笑いネットワーク)に残されている)。
駆け出しの頃は、よく同期の島田紳助と二人で遊園地などに営業に行っていた。この他、同期にはオール巨人、桂小枝らがいる。また中川一美と一緒に新喜劇の舞台で共演していた事がある。
1979年、関西テレビで午後7時から放送された番組『誰がカバやねんロックンロールショー』の司会を担当。同名のバンドや、紳助・竜介らと共演し、関西の若者を中心に人気を呼んだ。
1979年、シングル「Mr.アンダースロー」で歌手デビュー。大阪ガスのCM曲だったこのシングルは、オリコンの大阪チャートで1位を獲得した。キャッチコピーは「頼れるエースはアンダースロー」。「CMが放映されブレイクしていた時に、番組内で『燃料といえば?』と振られたので、あえて『練炭』と答え、ガスのCMから降ろされてしまった」と本人はネタにしている。
また、『花王名人劇場』(関西テレビ制作 フジテレビ系)の『裸の大将放浪記』で、和菓子屋ぎおん堂の番頭としてゲスト出演。
営業の余興で島田紳助の手足を縛り上げプールに落とし脱出するという脱出劇をするが、水没する紳助が見たのは両手を叩いて大笑いしているさんまの顔だった。

受賞歴
第10回(1982年度)日本放送演芸大賞(フジテレビ) ホープ賞
第11回(1983年度)日本放送演芸大賞(フジテレビ) 奨励賞
第13回(1985年度)日本放送演芸大賞(フジテレビ) 優秀賞
第14回(1986年度)日本放送演芸大賞(フジテレビ) 特別賞
第15回(1987年度)日本放送演芸大賞(フジテレビ) 大賞
第2回(1982年度)花王名人大賞(花王名人劇場) 新人賞
第5回(1985年度)花王名人大賞(花王名人劇場) 大衆賞
第23回(1985年度)ゴールデン・アロー賞 芸能賞

代表曲

豪華な作家陣を揃えた楽曲が数多い。また、1986 - 1988年に発売した曲が多いが、これらの多くはさんまが主演の単発ギャグドラマ『心はロンリー気持ちは「…」』の主題歌として作られた曲である。
1979年 Mr.アンダースロー(「魅せられて」「大都会」はこのころのアルバム収録曲)
いくつもの夜を超えて
1982年 いけないお化粧マジック(島田紳助と)
1983年 アミダばばあの唄(作詞・作曲:桑田佳祐)
1984年 ビックリ箱のうた(作詞・作曲:松山千春)
1986年 シングル・ベッド(カップリングは飛鳥涼作詞作曲の「TEKU TEKU」、作詞:澤地隆、作曲:CHAGE)
1986年 しあわせって何だっけ(キッコーマンCM曲、作詞:関口菊日出、補作詞:伊藤アキラ、作曲:高橋千佳子)
1986年 世渡り上手(作詞・作曲:関口和之)
1987年 真赤なウソ(作詞・作曲:高見沢俊彦)
1987年 サンキュー(作詞・作曲:甲斐よしひろ)
1988年 蒼いタメイキ(作詞・作曲:高見沢俊彦)
1988年 Yellow Sunshine(作詞・作曲:高見沢俊彦)
1988年 あっぱれさんま大先生(カップリングは大竹しのぶ(4chan)が歌う「ボク知ってるヨ」、作詞:3chanとみんな、作曲:小六禮次郎)
1999年 明石家さんまさんに聞いてみないとネ(「明石家さんま&所ジョージ・ゲスト工藤静香」名義、作詞・作曲:所ジョージ)
2009年 笑顔のまんま(『FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!』で制作、作詞・作曲:BEGIN)
(Wikipediaより)


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